2016年8月4日木曜日

「UMA河童」の正体は異星人グレイか!?「河童というやつは、不可解きわまる夜空の申し子のようなものではないだろうか。だから星の世界に何か怪しの異変が生じると、たちまち興奮してくるのではないだろうか」(1)


 

 

 

『河童の文化誌』 【明治・大正・昭和編】

和田寛   岩田書院  2010/3

 

 

 

・「古来、日本で河童がたくさんあらわれたのは常に澆季末世のときであった。飢饉とか天災とか、悪い大臣や役人が政府にいて、失政、苛斂誅求のつづいた時代、戦乱のあと、そして国民が疲弊し、幸福をうしない、頽廃の気が天下に満ちたときにかぎって、河童がはげしく出没している。私は河童を通じて現実を凝視することの大切さをあらためて悟るのである」と述べている。

 

「河童というやつは、不可解きわまる夜空の申し子のようなものではないだろうか。だから星の世界に何か怪しの異変が生じると、たちまち興奮してくるのではないだろうか」と書いている。

 

・著者(日野葦平)は「後書 河童独白」の中で次のように述べている。

 いま集めてみると、最新作「花嫁と瓢箪」まで、長短あわせて43編、4百字詰原稿紙にして千枚を超えている。もっとも15年間書いたものとすれば、そうおどろくほどの量ではなく、むしろ少ないといえるかも知れない。もっとカッパに夢中になっていたならば、百編を超え、枚数も3千枚に達していたであろう。しかし、これらの作品は私が小説を書く片手間仕事だと人々に思われ、私自身もそんなにカッパばかりを書いていることはできなかった。けれども私はけっして片手間に書いたわけではなく、どんな短い作品にも打ちこんで取り組んだし、すこし大仰にいえば、一つのカッパ作品ができあがることは、5百枚の長編が完成されると異ならないほどのよろこびであった。そして、いま思うのである。毀誉褒貶はともあれ、これはたしかに、私のライフワークの一つである、と。

 

<昭和45年(1970)>

・この年の7月に、白馬書房から大木伸一の『ロシアの河童―暮しの落穂拾いー』が出た。本書は、この時代に、研究が非常に困難であったソビエト社会の民俗学的考察で、著者自身のフィールド・ワークの成果である。

 

・本書の表題となっている「ロシアの河童」は、本書の最期に置かれた章で、ロシアの河童ともいえる。「ボジャノイ」と、水の精「ルサールカ」について触れたものである。

 今、「ロシアの河童ともいえる「ボジャノイ」」と書いたが、本書によると、ボジャノイは「頭、目を含めてモグラに似ています」「手と頭の位置の関係は、蛙のそれを思い出させます。そして手には水かきが、5本の指の間についている」と書かれていて、姿態に関しては日本の河童とあまり似ていない。

 

・著者は、老人から聞いた話や、様々な文献などから、これらの話を数多く紹介し、両者の関係について次のような結論を出している。

 かつて信仰対象あるいは憑きものとしてのボジャノイという幻想が存在した時代がある。これに伴う儀礼の呼称は、不幸にして不自然死を遂げた肉親への愛称として「ルサールカ」が、「ボジャノイ」にとってかわった。キリスト教の普及で「ボジャノイ」は小悪魔の領域に押しやられた。

 こうした状態で、かなりの年月を経過した後、ヨーロッパの「マーメイド」もしくは「ニンフ」の影響を受けて、少なくともロシア人の間では「ルサールカ」を「水の精」とするロマンチックな解釈が加わった。そして、「ボジャノイ」が殆んど忘れられて「ルサールカ」との混乱が始まった。今となっては、たとえ僅かでも民衆の間に「ボジャノイ」が残っているのではないか。

 

 

 

『河童の文化誌』 【平成編】

和田寛   岩田書院  2012/2

 

 

<平成8年(1996年)>

<河童の同類とされている座敷童子(ざしきわらし)>

・ザシキワラシ(座敷童子)については柳田國男の『遠野物語』によって知られていたところである。

 

<アメリカのニューメキシコ州の異星人の死体>

・この年に発行された『ムー』の4月号(第18巻第4号 通号195号)に異色読み物「異星人グレイの正体は河童だった!!」が載っている。

 この読み物では、最初に昭和60年(1985年)8月に長崎県対馬で起きた河童事件と平成3年(1991年)6月に宮崎県西都市で起きた河童事件のことが紹介される。この2つの事件の共通点は、粘液質の三角形の足跡と異臭を残していることである。

 

・話は一転して、アメリカのニューメキシコ州。1947年(昭和22年)7月に墜落したUFOを回収したとして有名なロズウェル事件のことになる。地元の新聞が伝えるところによると、UFOの機内から、奇妙な姿をした異星人の死体4体が発見され、その死体はワシントンのアンドリュース基地に移送されたという。また、レオナード・ストリングフィールドの『UFO墜落/回収シンドローム』(1978年)によると、回収された異星人の姿は人間によく似ているが、明らかに地球人ではない。身長1.4メートル、体重18キロ前後、人間の子どものようだが頭部が非常に大きい。手足は細長く、全体的に華奢。指は4本で親指がなく、水掻きをもっている。目は大きく、少しつり上がっている。耳はあるが、耳たぶがなく、口と鼻は小さくて、ほとんど目立たない。皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家は、この異星人を「グレイ」と呼ぶ。

 

・異星人グレイと河童を並べてみると、素人目にも、そこには多くの共通点を見出すことができるだろう。

まず、その身長。どちらも1メートル前後。人間のような恰好をしているが、頭部だけがアンバランスなほど大きい。

大きな目に、耳たぶのない耳、そして小さな鼻穴と、オリジナルの河童の顔は、どちらも4本なのだ!。

また、グレイの皮膚の色は、一般にグレイだが、ときには緑色をしているという報告もある。

河童の色は、やはり緑が主体。ただ、両生類ゆえに、皮膚はアマガエルのように保護色に変化することは十分考えられる。

 

1940年代のある日、米軍は極秘裏にある生物の捕獲作戦を展開し、4体の謎の生物を捕獲した。その生物は鼻が曲がるほど生臭く、キイーキイーと甲高い声を張り上げて、必死に暴れまわり、それがまた力強かったようである。米軍によって捕獲されたのは、ドーバーデーモン、すなわちアメリカに住む河童である。

 

・著者は結末部でこう述べている。はっきり断言しよう。グレイは異星人ではない!先に、河童はグレイであると述べた。だが、これは正確な表現ではない。グレイこそ河童なのだ。

 

・結局は、軍の元情報部とか名乗る怪しい人物からのリーク情報でしかない。逆に、そうしたリーク情報に登場する異星人は、きまってグレイなのだ。これらが意味することは、ひとつ。アメリカ軍は、組織的にUFO事件を演出している。捕獲した河童を異星人として演出しているのだ。

 

<河童の正体は?>

・平成8年(1996年)に発行された『ムー』の4月号に「異星人グレイの正体は河童だった!」が載っている。1947年(昭和22年)7月に、アメリカのニューメキシコ州で、墜落したUFOを回収した。これが有名なロズウェル事件で、この時に回収された異星人と思われる生き物の姿は人間によく似ているが、皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家はこれを「グレイ」と呼ぶようになった。

 先述のとおり、飛鳥昭雄と三神たけるは、この「グレイ」と「河童」とを結びつけ、『失われた異星人グレイ「河童」の謎』(学習研究社)を著しているが、その「第10章」を「「UMA河童」の正体は異星人グレイか!?」としている。

 

<平成13年(2001年)>

・この年の8月に、桜桃書房から、長尾誠夫の『神隠しの村―遠野物語異聞―』が出ている。この小説の粗筋は次のとおりである。

 大正58月、遠野で3人の子供が神隠しにあい、佐々木喜善の要請を受けて、柳田国男が遠野の里を訪れた。柳田は、遠野に着いた日、遠野の専売局に勤める牛山勇吉に「あんたは何もわかっちゃいない。山の神はいる。ザシキワラシも河童もオシラサマもな。あんたが書いた『遠野物語』はすべて事実なんだよ」といわれる。そして、その夜、柳田は旅館の平澤屋でザシキワラシを見た。

 同じ日、佐々木喜善は睡蓮沼で河童を見た。

 睡蓮沼のほとりで、喜善は瘧(おこり)のように身を震わせていた。あまりの衝撃と恐怖に口をきくことも身体を動かすこともできなかった。たった今見たもの……それはまさしく河童そのものであった。背の高さは喜善の肩ほどか、身体は泥まみれ、髪は海藻を張りつけたようで、頭頂部が禿げて瘤のように盛り上がっていた。鼻は潰れ、唇が上下とも膠状に固まっているため嘴のように見える。

 

2匹の河童は馬の後ろ足を握って、馬を淵の中へ引きいれようとしており、もう一匹は馬の背に乗って尻の部分に食いついていて、血がぽたぽたと垂れていた。

 村人たちは、鍬や鋤を振り上げて河童たちに向かうと、河童は馬から離れて「くわっ、くわっ、くわっ」と叫んで淵の中に飛び込んだ。

 

・高善旅館の二階で子供たちを救い出すための方策が検討され、経路、参加人員、持ち物、注意事項などが決められた。経路は早池峰裏詣の道筋を辿って、子供たちが消えた田代ヶ原へ向かい、裏詣道からはずれて七郎沢を遡行して“異人の村”に至る。

 捜索に出るのは、柳田国男、佐々木喜善、小学校の女教師・山中百合子、屈強な猟師4名、新聞記者の大森憲次郎、牛山勇吉、イヌカヒら異様な風体をした男たち3名、神隠しのあった子供の親である定吉と嘉兵衛、早池峰神社の宮司、町会議員の村下耕造の16名である。

 

・いよいよ裏詣道に入るのだ。ここから先は、通常の里人が入り込んだことのない“異界”である。しかも、柳田国男の話によると、異人が頻繁に往復しているという。喜善は身の引きしまるような思いで鳥居をくぐった。消失した3人の子供は果たして山の神・三面大黒にさらわれたのか?はたまた異人の仕業なのか?それに喜善らが見た河童の正体は?そして、柳田国男の活躍は?

 

<河童による町おこし>

・「河童の町づくり」は、「河童のふるさと」を自認する市や町の活動から始まった。岩手県遠野市は柳田国男の『遠野物語』で河童伝承が紹介され、世に広く知られていることから、古くから「河童のふるさと」として名乗りを上げ、宮城県加美郡色麻町は、この街に磯良神社(通称「おかっぱ様」)が鎮座し、河童伝説が伝わっていることから、ここも「河童のふるさと」をキャッチフレーズにし、「河童の本家」という言葉も使っている。

 

・民俗行事としての「かっぱ祭り」(水神祭)は古くから行われてきているが、観光行事としての「かっぱ祭り」の殆どは昭和の後半以後に始まったものである。その例は、北海道札幌市の定山渓温泉で毎年行われている「かっぱ祭り」で、その第一回は昭和40年(1965年)8月に行われている。

 小川芋銭の“ふるさと”であり、河童伝説でも有名な牛久市では、毎年7月の最終土・日曜日に「うしくかっぱ祭り」が行われているが、その第一回は昭和57年(1982年)である。

 

・その牛久市に、平成元年(1989年)に、河童の伝説や河童と縁のある全国13の市町村の首長らが集まって、「第一回全国河童ドン会議」(正式名称は「河童のふるさと創り全国連絡会議」)が開催された。

 

・河童の町として有名な福岡県の田主丸町(現、久留米市田主丸町)が本格的に河童の町おこしに取り組むようになったのは平成2年(1990年)からである。

 この町では、昭和30年(1955年)から「河童族」(正しくは「九千坊本山田主丸河童族」)という住民組織を中心に、地域住民による河童の町づくりを推進してきたが、「水と緑と河童のふるさと」をキャッチフレーズとして、行政が本格的に「河童の町づくり」に取り組んだのは、この事業を「ふるさと創生事業」として位置づけたからである。

 

・この町では、平成3年(1991年)度から、町内を9千体の河童像で埋め尽くすという「河童9千体設置事業」が始められ、JR田主丸駅ホームに高さ3メートルの巨大河童像、同駅前に「楽太郎河童」の像、田主丸中央公園に高さ2メートルの「巨瀬入道河童」の像、等々いたるところに河童像が建てられている。

 

・度々の洪水に悩まされてきた鹿児島県の菱刈町(現、伊佐市菱刈)は、川内川と、その水のシンボルである河童(この地方の呼称は「ガラッパ」)を逆手にとって「町づくり」に利用するというユニークな町である。

 

・さて、この「ひしかりガラッパ王国」は、大統領府として5機関の省庁があり、年齢別組織は、50歳以上の「おせガラッパ」が王国の目付け役として若者らへの助言や指導を行い、20歳から50歳までの「にせガラッパ」がイベントの企画や運営など王国の中心的な活動を行い、小中学生らを主とした「ちごガラッパ」は夏祭りなどの行事に参加することが主な役割である。

 

 

 

『河童物語』

本堂清  批評社 2015/10/25

 

 

 

<異界に生きる生物を具現化>

・人々は、古来から自然界の不思議な異変現象や畏怖の体験から、さまざまな想像上の禽獣、妖怪、守護神を数限りなく生み出してきた。

 なかでも、吉祥祈願のための龍や鳳凰、河童は、人間生活に根強く溶け込んでいる。

 とくに河童は、どじで間抜けで、意地がなく、悪さをして人に捕らえられると、勘弁してくださいと涙を流し、時には詫び状まで入れて、許されると、その恩義に感じて秘伝の薬事方法まで伝えたりする憎めない妖怪で、全国至るところによしみをもっている。

 

<河童と烏天狗>

・カッパと天狗仲間の烏天狗は、顔が似ているので、先祖は同じ仲間ではないかという者もいるようだ。

 たしかに両方とも、目が大きく、鼻が似ていて、頭もばさらである。だが天狗の目は、カッパがキョロキョロとしているのに対してギョロと鋭く怖い。

 それにカッパは、童形の水生動物であるのに対して、天狗は人間の変身であり、並はずれの神仙修業を積んだ者で、背に翼を持ち、大きなヤツデの団扇をあおいで、天空を駆けるなど、カッパの神通力とは比較にならない、融通無礙の呪術を会得している。

 カッパも飛翔することがあるが、これは春秋季に集団移動する時や、必要な集団行動に限り、飛ぶことができるという習性で、普通に天空に遊ぶことはできない。

 したがって、カッパと烏天狗は、空中と水中のように似ても似つかぬ生態なのである。

 

<河童とは>

・この世に「カッパなどいない」と、にべもなく否定する人がいる。確かに現代において、カッパはオカルト的な存在であり、カッパの存在は生物学的・科学的にも証明することは難しい。

 だが「実際に見た」とか「悪さをされた」という証言は古来から多く伝えられ、絵本などでも様々に描かれている。だから一概に「カッパは存在しない」ということにはためらいがある。

 

<河童像>

・カッパについて、いろいろ調べてみると、カッパの容姿についておおよそ次のようなスタイルが浮かんでくる。

 絵本に出てくるカッパは45歳の童子のようで、顔はトカゲに似ている。くちばしが尖り、身に堅い甲羅を背負い、手に水掻きがある。頭はオカッパでお皿を置いたように髪の毛がなく、ここに湿り気がなくなると途端に妖力が抜ける。だが、皮膚の下に厚い脂肪をたくわえているので、冬でも裸でいられるのである。

 川の深みや沼、水神様が祀られている水辺近くに棲んで、仲間同士で相撲を取ったりしているが、時には、人や馬を水中に引き込むという悪さをしたりする。

 

・日本国にカッパは、数十万匹居ると言われているが、不思議なことに彼等は体を小さく変体させて、馬のひずめ跡の水溜りでも、千匹棲めるという妖怪である。

 

<河童忌>

724日は、小説家芥川龍之介の命日で代表作「河童」に因んで「河童忌」となづけられている。

 河童を題材とする本はこれまでわんさと出ている。それだけに人とカッパの関わり深さがわかる。

 火野葦平も長編小説「河童」のなかで、多くの有名人が描いた河童想像画を挿絵に飾って、カッパの生態を怪しく書いている。

 画家や彫刻家たちも、思い思いのカッパ像を表現してきている。しかし小川芋銭の河童画に勝るものはない。芋銭は実際にカッパを見たと言っているので、独特な画風と相俟って迫真の河童像が描けたのである。

 

<河童守護神  罔象女水神>

・罔象女水神(ミズハノメノカミ)は水神様で、カッパが崇拝する守護神である。『古事記』では、「弥都波能売神」と表記されている、日本の神話に登場する代表的な水神である。天照大神の母であるイザナギの命が、火の神であるカグツチを生んだとき、ホト(陰部)を火傷してしまった。

 その苦しみで、思わず失禁し、尿からミズハノメを産んで死んだのである。

 それでミズハノメは火を鎮める水の神となった。その容姿は小児のような小神であったという。

 また一説ではミズハノメとは、水神に使える妻という意味もあるという。さらに、中国の文献では龍や小児の姿をした水の精であるといわれている。

 さらにまた「カッパは小神の零落したかたち」という伝説もあってカッパ妖怪伝説の由来ともなっている。

 

<河童総元締 九千坊>

・日本国に潜在するカッパは数万といわれている。その総元締は、九州は球磨川に棲んで、九州一帯に勢力を広げ、九千匹の子分を配下に収めていた九千坊ということになっている。

 九千坊は先祖代々襲名で、カッパ族の象徴的存在である。カッパ族は九州高千穂から全国に扶植したもののいわれて、誰からも支配されたり、統率されることはない。

 だからどこに棲んでいても、カッパ族にはシチ面倒くさい作法とか親分・子分といった角張った階級格差などは存在しない。

 だが、由緒正しいカッパ族の誇りと秩序を守るために、全国的な節制組織がある。

 その頂点に立っているのが九千坊である。だが彼は決してカッパ族の統率者ではない、名誉総裁として敬愛されているのである。

 

<九千坊の女房 ポンポコ>

・九千坊の女房ポンポコカッパは、豊前国の立川地方を縄張りとする六助カッパの一人娘で、美貌に似つかわしくなく、男まさりの喧嘩好きで、父親の六助に変わって豊前一帯の縄張りを支配していたので、あまり評判の良くない女親分であった。

 そのころ、筑後川に拠点を移していた九千坊は、玄界灘から周防灘、日向灘の西海地方を圏域とする、カッパ族の生きる宗家として、隠然たる信頼と権威を保っていた。だが、まだその頃は九千坊とは言わずにカッパの宗家西海家を継承し、西海坊と呼ばれていた。

 

<河童譚>

・カッパの元祖についてはいろいろな説がある。九州は球磨川河口の八代市に「河童渡来之碑」が建っている。

 それによれば今から223百年前、秦の始皇帝に仕えた方士(不老長生法など神仙術に長けた仙人)徐福が、東海の彼方にあるという不老不死の仙薬採取を命じられた。徐福は蓬莱山への航海にあたって、皇帝から与えられた良家の少年少女3000人と、金銀珠玉と五穀と機材を積んで旅立ったという。

 だが徐福の大船は日本に漂泊して本国へ帰還しなかった。

 この頃中国方面から漢民族に滅ぼされた多くの漂流民が日本に渡来してきた。この時中国黄河を本拠地としていたカッパ一族が、海を渡ってきて、球磨川に棲みつき、繁殖して九千匹にもなった。これの族長が九千坊であるという。このカッパ族は全国に伝播していき、カッパ、かわわっぱ、川伯、河童またはヒョウスベ、ガタロウなどと呼ばれるようになった。

 またカッパの故郷は、九州高千穂という説もある。邪馬台国の女王卑弥呼(天照大神)の孫が国造りのために天孫降臨したところである。カッパの先祖は、その時お供して来た、神の子の子孫という伝承もある。

 

・またヒョウスベという呼び名は、カッパがあなたこなたへ移動するとき、ヒョウヒョウと声を鳴らしながら行くので、その名で呼ばれるのだともいう。つまりカッパはカラス天狗のように飛翔することもできるのである。

 

<人と河童のDNAは同じ>

・その態様はまことに奇怪で、身に衣を着けず、裸体で、身を保護するためか、背には亀の甲羅のようなものを背負っていた。人間でもなく、魚類でもない奇態な小動物を、中国人は水虎とか河伯と呼んでいた。

 やがて奇態な格好をした彼等は日本にも現れて、妖怪カッパとしての伝説を広めていくのである。

 

<河童のパラダイス西海道>

・九州はカッパ発祥の地といわれているだけあって、カッパ集団が九州全域に割拠している。

 もちろん筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、薩摩、大隅、日向の西海道は、カッパの宗家九千坊一家の領域である。

 筑前、豊前には、壇の浦の戦いで源氏に敗れた、平家の武将平教経の奥方で、カッパに化身した海御前を守護神に祀って結束しているカッパがいる。この平家カッパの領域も九千坊の領域である。

 日向地方には、高千穂付近の五ヶ瀬川支流の一つに七折川に、瀬の弥十郎グループが、山裏に右衛門グループ、押方の二上川には神橋の久太郎グループなどがいる。

 

<海御前を祀る平家>

・北九州市門司区の大積には天疫神社があり、そこに海御前の墓がある。

 海御前は寿永4年(1185)の源平最後の合戦を、檀の浦でたたかったが、平家は敗れて西海の海の底深く沈んだ。この戦いで、源氏の大将判官九郎義経の八隻飛びを、寸前のところで捕えようとしながらも取り逃がした、平家の大将能登守教経の妻が、カッパに化身したのが海御前である。

 教経は矢に当たって落水し、妻も入水して流されているところを郎党に引揚げられて、大積の地に葬られた。郎党たちは門司周辺に住み、西海のカッパに化身したとされる。

 この平家の郎党は、海御前の霊を守護神として祀り、毎年平家の命日である旧324日には、平家一族の誇りと結束を強め、瀬戸の海に眠る祖先の霊を慰めている。

 

 

 

『河童を見た人びと』 

 (高橋貞子)(岩田書院)  2003/6

 

 

 

<「河童を見た人びと」の舞台は、岩手県下閉伊郡岩泉町です>

「河童を見た人びと」の舞台は、岩手県下閉伊郡岩泉町です。岩泉町は、香川県一県に匹敵する日本一広い面積をもち、総面積の93%を林野が占めています。豊かな森と水を背景に、岩泉町の人々は河童ばなしを豊かに語り継いでいました。半世紀前の人々が見たり聞いたりした岩泉河童ばなしを掘り起こして、ひたむきに書き留めて羅列して一冊になりました。

 

<ミカン色の皿を被ったカッパを見た>

・昭和13年(1938)、キクさんたちは小学校の4年生でした。ある日、学校の帰途に舟木沢の滝の渕を覗きますと。美しいミカン色の皿が浮かんでいました。

よく見ると、ミカン色の皿の周りには、肌色に縁取られていました。やがてカッパが浮かび上がり、胸の辺りまで体を現しました。カッパは肩の落ちた撫肩の体形でした。

その体の色の美しいこと、表現の言葉がみつからないといいます。水に濡れていた所為と思いますが、サンマなどの光り魚のようだった、と言い表すのが一番近いでしょうと、キクさんは語りました。

 

 

 

『アラマタ大事典』

監修:荒又宏   講談社    2007/7/13

 

 

 

<河童の正体  実在した生物だった!?>

・妖怪には興味のない人も、河童の名前は聞いたことがあるだろう。頭には皿があり、手足には水かき、背中には甲羅があるという妖怪だ。キュウリが大好物で、人間と相撲をとったり田植えを手伝ったりすると聞けば、いい妖怪のイメージだ。でも、川で泳いでいる子どもの足をひっぱって、おぼれさせることもあるというから、意外と乱暴でもある。

 この河童、完全な想像上の生物ではなく、モデルとなる生物がいるのでは、と昔からいわれていきた。いちばん可能性が高いとされているのが、「カワウソ」である。カワウソというのは水辺にすむイタチの仲間で、日本には昔、「ニホンカワウソ」というカワウソが全国各地にすんでいた。

 

・また、川で遊んでいて足がつったり、おぼれた人を見て、「きっと、水辺に立っていたやつが、水中から足を引っぱったにちがいない」ということで、少しずつ河童という妖怪がつくられていった可能性が高い。

 

・「河童という生物は本当に存在していたのでは?」という、かわった説もある。カナダのデール・ラッセルという学者が、もし恐竜が絶滅せずにそのまま進化していたらどうなったかと考え、脳が大きく、体長2mほどの「トロオドン」という恐竜をもとにシミュレーションした。その結果からえがかれた「ディノサウロイド」という恐竜人間の想像図は、頭が小さく目が大きく、口がとがっていて指が長い。そのすがたはじつに、河童によくにているのだ。ひょっとすると河童は、恐竜が進化した生物の数少ない生き残りだったのかもしれない。

 

 

 

『知っておきたい伝説の魔族・妖族・神族』

健部伸明  監修   西東社    2008/12

 

 

 

<河童(日本伝承)アジア起源の水の妖怪 水の妖精>

<各地に残る河童伝説>

・河童は日本の伝承に現れる水の妖怪で、その奇妙な姿が各地で目撃されている。一般的には、川や沼、渕などに生息し、体長は13メートル、顔はカエルに似て、長い鼻があり、手には水掻きと鉤爪がついている。肌は緑色で背中には甲羅がある。頭のてっぺんにある浅いくぼみ(皿)が特徴だが、実はこれは河童の弱点でもある。これが濡れている間は怪力だが、乾いてくると生きていけなくなるほど弱々しくなってしまう。したがってもし河童を撃退したいなら、低くおじぎをするとよい。河童はおじぎをされたら必ず返さないとならないらしく、くぼみの水がこぼれ落ちてしまうのだ。

 

・河童の起源を遡ってみると、720年に完成した『日本書紀』には皇極天皇元年七月の条に、百済の使者が渡来した後に「河伯に雨乞いをしたが、効果がなかった」との記述があった。河伯は中国の河の神で、日本に伝わった際に、河童の原型になったのではないかと考えられる。また、熊本県にある「河童渡来碑」は、5世紀前半に建てられたものだともいわれており、河童伝説が古くから日本に根付いていたことが分かる。いい伝えによると、中国の唐に棲んでいた河童たちが移住を決意し、日本海を渡って九州地方に棲みついたそうだ。その一族は、一時は9千匹にも増えたという。

 

<大好物は人間の肝>

・河童は水辺に棲み、よく人間を水の中に引きずり込んだ。そのためかつては、子供が水に溺れて死んでしまうのは河童の仕業であると考えられた。河童は人間の尻子玉(肛門内にある架空の臓器)を抜いて、好物の魂や肝を喰らう。これは人間の生命の源であるから、抜かれてしまうと一溜まりもない。水死者の肛門が開いているのは、尻子玉が抜かれているからだそうだ。

 

・人間の姿に化けて誘い込もうとしたこともあった。あるとき、老人が田んぼの用水路に立っていると、小僧が現れて「用水路の中に入れ」という。怪しんだ老人がこれを拒否すると、小僧は河童に変化して水中に消えてしまったそうだ。

 

<秘薬を伝授した河童>

・水の妖精でもある河童は、ときに赦免のために、秘薬の調合法を伝授することがあった。河童は水の住人なだけに、金気を嫌う。故にこの秘薬は金属による傷によく効いた。また、相撲好きな性格のため関節を挫くことも多く、骨折治療術にも長けていた。

 

 

 

『日本化け物史講座』

 原田実   楽工社   2008/2/1

 

 

 

<カッパ>

・航海安全 水難消除 河童渡来之碑

 ここは千五六百年前、河童が中国方面から日本に来て住みついたと伝えられる浦である。この2個の石はガラッパ石と呼ばれ三百五十年前 木の橋石であった。或日いたずら河童が附近の人に捕えられた時この石がすり減って消えてしまう迄いたずらはせぬと誓い年に一度の祭りを請うたので住民がこの願いを諒とし祭を当日の五月十八日と定めてオレオレデーライタ川祭と名づけ祭りを行っている

 昭和29年 八代市中島町内会 中島史蹟保護会 オレオレデーライタ祭団(熊本県八代市本町 八代川支流・前川の堤防にある石碑の碑文)

 

<ガラッパ――カッパの原型>

・九州の熊本県八代には、45世紀頃にはガラッパが渡来した、という伝説があります。ガラッパは、カッパの原型となったとされる化け物です。

 伝説によると、もともとガラッパは中国の黄河にいたが、仁徳天皇(4世紀後半に在位)の時代に日本にやってきて有明海に入った。ガラッパの数はたちまち増えて九千匹にもなり、その大将は九千坊と呼ばれたといいます。ガラッパたちは千年以上も人を水の中に引きずり込むなどの悪事を働き続けたため、加藤清正(15621611)によって退治されてしまいます。九千坊は今後人を襲わないと誓約して、以来、八代では川での水害や水難事故がなくなった、という話です。

 

・このように、政治的に重要であった九州には、実は八代に限らず、やたらとカッパの伝承が多いんです。ガラッパ九千坊の他にも、宮崎県のヒョウスンボーとか、佐賀県・福岡県のヒョウスベなど、カッパの原型になったと思われる化け物の話がたくさんあります。佐賀では、かつてカッパは人を水に引き込んでいたが、近世になると領主の鍋島家にそれまでの罪を謝り「これからは人をとらない」と約束したという、八代の話と似た伝説もあります。

 

・しかもカッパに関連した海外、特に中国がらみの話も多い。たとえば薬屋の創業者にカッパが傷薬の処方を教えてくれた、あるいは薬屋の創業者がカッパから傷薬の処方を盗んだなどの売薬の由来譚です。こうした話は全国各地に分布していますが、特に九州地方に多いですね。これは、実際には中国から伝わった薬に関する技術を、独自の薬法であると主張したかったためにカッパの話にすりかえた、と考えられるわけです。中国人から教わった、と言うよりカッパから教わったと言った方が、独自性を主張できるし神秘性も増しますからね。

 

・というわけで、現代人にもお馴染のカッパの原型は、古代にまで遡るのではないかと考えられるのですね。もちろん、八代のガラッパがそのまま現代人がイメージするカッパになったわけではありません。ガラッパに類した「水の怪」の伝説は日本史の比較的早い段階から全国各地に広まり、それぞれの土地でそれぞれの名前を与えられていました。たとえば、青森でカッパを意味するメドチとか、アイヌ語のミンツチなどは、明らかに蛟(みずち)が原型です。蛟はもともと蛇の姿の水の神のはずでしたが、現在ではカッパの一種にされています。

 

・このような「水の怪」たちの伝説が全国にあり、そうした下地ができていたところに、江戸時代中期以降になって印刷技術が発達し、それによって江戸で印刷された黄表紙本などが広く全国で読まれるようになる。そしてそれぞれの土地にいた水の怪が、江戸方面の方言だった「カッパ」という名で呼ばれるようになっていくわけです。一説には、カッパを意味する方言は4百種以上あるとされます。逆にいえばこれは、全国各地の4百種以上もの水の怪が「カッパ」という名前の化け物にとりこまれたことを意味しているのです。そしてこの時期に、呼称の統一と並行するかたちで、頭の皿とか背中の甲羅といった現代人がイメージするカッパの姿形が整えられていったわけですね。

 

<小子部栖軽(ちいさこべすがる)――王権の矛盾を引き受けるトリックスター>

・次は5世紀中盤、雄略天皇に仕えた小子部栖軽が雷神を捕まえた話です。この話は、平安時代に書かれた説話集『日本霊異記』の冒頭に出てきます。

 ある時、宮中で天皇と皇后が同衾していたところに、小子部栖軽が知らずに入ってそれを見てしまった。天皇は照れ隠しに、一度、雷というものを見てみたいものだと言った。小子部栖軽はそれを受けて飛鳥のとある丘に行き、実際に大きな蛇の姿の雷神を捕まえてきた。何せぴかぴかと光ってやたらと音を立てる大きい蛇が宮中に運ばれてきたわけだから天皇も驚いて、すぐ山に返してこいと言った。以来、雷を捕まえた丘を雷丘と呼ぶようになった。

 

・その後、栖軽が亡くなった時に生前の事績が人々の語り草となり、「生きて雷を捕えた小子部栖軽」と褒め称えられた。これに怒った雷神が小子部栖軽の墓に落ちたところ、そのまま動けなくなって、天に帰れなくなった。そして栖軽は「死してからも雷を捕らえた」という具合いにさらに賞賛された、というお話です。

 

・小子部栖軽は雄略天皇に仕えていた臣下ですから、これは雄略天皇にまつわる話でもありますね。雄略天皇を「倭の五王」の武とみなす説があることは前節でふれました。また日本国内においても、雄略天皇は王権の基礎を作った天皇として伝承されていた節があります。それほどの重要人物だからこそ、雄略天皇の御製(皇族の作った歌)は『万葉集』の冒頭を飾り、また『日本霊異記』も冒頭に雄略天皇の話をもってくるわけです。

 

・また、王権の基礎を作った重要な天皇というのみならず、雄略天皇は、異世界との接点にしばしば立ち入る人物としても伝承されています。記紀神話によれば、天皇が猟のために葛城山(現大阪府・和歌山県境の山)中に入った時に、前方から天皇の行列とそっくりな行列が出てきてかち会った。そこで名前を聞いてみると、それは善きことも一言、悪しきことも一言で決める一言主之大神だと名乗った、というエピソードがあります。『古事記』では相手が神と知って雄略天皇の方が畏まったことになっていますが、一方の『日本書紀』では、雄略天皇と一言主とが轡を並べて、その友情を確かめ合った、という形で語られています。

 

・雷丘などという、天上と結びつくような名を持つ場所で、異界のものを呼び出す存在、栖軽はいうなればシャーマンでもあったのではないかということです。古代世界においては、王権は地上を離れた向こう側の世界とつながっていてこそ地上の支配も可能になる、という認識がありました。小子部栖軽は、地上の王権と異界とを仲介する役割を帯びた人物であった可能性が高い、そしてだからこそ、トリックスター的な役回りをも負わされたと考えられるのです。

 

 

 

『あなたもバシャールと交信できる』

坂本政道   ハート出版   2010/12/10

 

 

 

<バシャールとは、どういう存在?>

<惑星エササニの生命体>

・バシャールはエササニという星に住んでいる地球外生命体です。エササニとは、Place of livinglight (生きている光の池)という意味です。彼らの世界は、喜びと無条件の愛に満ち溢れる世界とのことです。

 そこには彼らは、数億(人)位いて、その総称をバシャールと呼んでいます。ちょうど我々を地球人と呼ぶようなものです。住んでいるのは、恒星ではなく惑星です。

 

・方向としては地球から見てオリオン座の方向です。もちろん、太陽系外の惑星です。地球から500光年ほどのところにあるShar(シャー)という星の周りを回る第3惑星のことです。

 

・残念ながら地球からは見えないと言われています。暗すぎて見えないというよりも、我々とは、微妙に次元、あるいは、「密度」が違うためのようです。

 

・地球は、そして人類は「第3密度」であるのに対して、バシャールとエササニ星の宇宙人は「第4密度」です。

 

・その惑星から数百人?が宇宙船にのって地球にやってきています。現在、彼らは地球の上空にいて、アメリカ人のダリル・アンカという人を通して、チャネリングをしています。

 

<グレイの子孫>

・バシャール自体はどういう生命体なのかというと、実はグレイと呼ばれる宇宙人と地球人の間に生まれた混血だということです。では、グレイとはどういう存在なのでしょうか。ご存じの方も多いと思いますが、グレイはアーモンド型の黒い目をしたちっちゃい宇宙人で、悪いイメージがあります。ネガティブなタイプだといわれています。

 

・ちなみに宇宙人はポジティブなタイプとネガティブなタイプ、それにニュートラルなタイプがいるとのことです。ポジティブなタイプの霊は、プレアデスに住む生命体(プレアデス星人とかプレアデス人)です。アークトゥルスやシリウスの生命体、こと座の生命体の一部もポジティブです。ネガティブなタイプには、こと座やオリオン、シリウスの生命体の一部がいます。

 

・バシャールによればグレイというのは、本当は宇宙人じゃなくて、「パラレルワールドの地球に住む人類」です。パラレルワールドでは、この世界と併存する世界のことです。

 

・そして、時空間を超えてこの地球にやってきて、人類をアブダクション(誘拐)し、受精して、子孫を作りました。それがバシャールだということです。

 

・ですので、バシャールの先祖というのは、グレイと我々人類ということになります。

 

<地球のまわりに集まる地球外生命体たち>

・バシャールたちは、今アメリカのセドナという場所の上空にいます。ただし、何度も言いますが、宇宙船自体も第4密度ですので、セドナに行って上空を見上げても通常は見えません。

 

・このように、いろんな宇宙船がいろんなところにいるわけですが、ほとんどがポジティブ側の宇宙人たちです。ネガティブ側もいますが、比率としては101くらいだそうです。

 

・ポジティブ側は連合を組んでいるようで、ル-ルがあるようです。そのルールというのは、2012年までは地球人類に直接的には干渉しないというものです。

 

 

 

『もののけの正体』  怪談はこうして生まれた

原田実   新潮社     2010/8

 

 

 

<人を食らう者としての鬼>

・なにしろ正史として編纂された『日本三代実録』にも、次のような怪談が記されているくらいだ。光孝天皇(在位884887)の御代に宮中の武徳殿を歩いていた女房が物陰から現れた美男子に誘われて行方をくらまし、やがてばらばらにされた手足が見つかった。つまりその美男子の正体は人を食う鬼だったのである。

 

・また、平安時代の権力者にとって、鬼は便利な装置だった。権力者同士の争いに巻き込まれての死者や行方不明者が出た場合、それを「鬼の仕業」にしてしまえば、誰の責任も追及せずにすませてしまえるからだ。この時代、「鬼に食われた」という形で噂された失踪者の中には権力者の間の暗闘の犠牲者も含まれていたものと考えられる。

 

<定型化していく鬼>

・渋川版御伽文庫の挿絵に登場する鬼は、人間に化けているもの以外は、上半身裸で頭に角を生やした男として描かれている。おそらくこれが私たちが思い浮かべる鬼の原型だろう。版本としての御伽草子の普及にともない、鬼のビジュアル・イメージの定型化は一気に進んだ。

 

<天狗――天狗の鼻はなぜ高い?>

・また、日本神話で天孫降臨を最初は邪魔し、のちには道案内をかってでたという神・猿田彦が天狗の仲間とみなされた影響もあるだろう。猿田彦は巨大な鼻を持つ神として伝承されていたからだ。

 

・こうして江戸時代には、天狗の定番、特に大天狗は長い鼻で羽団扇を持った山伏ということになり、昔ながらの鳥の頭で羽が生えた天狗は、天狗界でも下っ端の烏天狗ということになった。

 

<天狗に弟子入りした少年>

・『仙境異聞』によると、寅吉が仕えた天狗は常陸国・筑波山系に属する岩間山の大天狗・杉山僧正だった。篤胤は天狗の暮らしぶりについてもいろいろと質問している。たとえば天狗の好物は山中でとれたイチゴやブドウなどの果物を岩穴の中で熟成させたもので上澄みの汁を飲んだ後、そこに沈んだ塊を練り固めて常備食にするのだという。

 また、天狗の羽団扇は空を飛ぶときの舵取りに用いられるだけでなく、他の魔物や猛獣を打ちすえるのにも役立つ。天狗はその羽団扇を使いこなすための修行を積むから、みな武術をきわめているのだという。

 

・篤胤は国学者として、また神道家として記紀などの日本神話を重視していた。神話の世界では、神々が黄泉国(死後の世界)と地上の間や、高天原(天上にあるとされる神々の世界)と地上の間をしばしば行き来している。

 

・記紀神話に関して、江戸時代には、神話はたとえ話を含んでいるからそのすべてが事実というわけではないと説明した学者もあれば、神々の世界のことだから、人の世で起きないことが起きてもおかしくない、と説明した学者もいた。ところが篤胤はそのどちらの道もとらなかった。

 

・日本神話はすなわち史実であり、神々は人間の祖先である。したがって、神話の世界で神々が体験していたことなら、現代の人間もまた体験できるはずだ。篤胤はこのように考え、現代(当時)において人が目に見えない世界と往来した実例を捜し求めた。天狗界と往来するという寅吉はその篤胤の希望に応えたわけである。

 

・なお、篤胤は天保14年(1843)に世を去ったが、その後、彼が開祖となった平田神道の流れをくむ神道家の間から、天狗界に関するレポートがつぎつぎと発表される。参沢宗哲『幸安仙界物語』(『幽界物語』1852年)は和歌山藩士で寅吉同様、天狗に弟子入りしていたという島田幸安からの聞き書きである。また、明治の神道家・宮地水位(堅盤)(18521904)も幕末期に異界に出入りして天狗の教えを受けていたという。後年、水位が若かりし頃の見聞にもとづき、日本のみならず中国や西洋の天狗界の消息について記したメモ書きが『異境備忘録』であり、明治20年(1887)頃にいったん水位自身が編集した本が門人に書写される形で広まった。

 

<河童――水神はどこから来たか?>

<河童の起源は古代まで遡るか>

・河童というのは古くて新しいもののけである。その伝説上の発祥ははるかな古代にまで遡る。

 現在は『遠野物語』などの影響もあって、河童といえば東北というイメージを持つ人も多いだろうが、実際に河童に関する伝承が濃密に伝えられていた地域といえばまず挙げられるのは九州だ。

 たとえば熊本県八代市には次のような伝説がある。

 

・球磨川支流で八代市街地を流れる前川。この川にかかる新前川橋のたもと周辺はその昔、徳淵津という船着場だった。そして、その徳淵津跡の堤防上には一つの石碑が建っている。これが通称「河童渡来の碑」だ。その碑文に曰く――、

「航海安全 水難消除 河童渡来之碑  ここは千五六百年前河童が中国方面から初めて日本ニ来て住み着いたと伝えられる場所である」(原文ママ)

 この石碑は昭和29年(19546月、八代市中島町内会・中島史蹟保護会の連名で建立されたものだ。ちなみにこの地方では河童のことを「ガラッパ」と呼ぶ。

 

・『本朝俗諺志』『和訓栞』など、江戸時代の文献によると、ガラッパが黄河から渡来してきたのは仁徳天皇の御代のことだった。『日本書紀』によると仁徳天皇の在位は西暦313年から399年、つまり4世紀のことである。仁徳天皇が実在したかどうか、実存したとしても『日本書紀』の紀年が信頼できるかどうかはさておくとして、碑文の「千五六百年前」は、まさに伝承上の仁徳天皇の御代に相当している。

 

・それら江戸時代の文献に記された伝承によると、八代に住みついたガラッパの群れは、大いに栄えその数9000匹を数えた。その頭領は九千坊と呼ばれた。九千坊と配下のガラッパは長年にわたって、田畑を荒らしたり、人をさらったりと悪事を繰り返した。そのため、彼らは加藤清正公の怒りに触れて退治され、その後は二度と悪事は行わないと誓ってそのまま八代に住むことを許されたとも、筑後川に移住して久留米の水天宮の眷属になったとも伝えられている。いずれにしろ、それ以来、熊本・八代では水難の害はなくなったという。

 

<畏怖の対象からひょうきん者へ>

・河童といえば誰もが思いだす特徴、頭には皿、その周囲に垂れる髪、背中にはカメのような甲羅、嘴のようにとがった口、人間の子供のように小柄な身体つきで泳ぎが上手、愛嬌があり、相撲をとるのが大好きで、食べ物はキュウリを好む・・・そうした要素は実は、江戸時代に定着したものだ。

 

18世紀前半、江戸時代中期までの河童に関する記録や図では、全身毛むくじゃらの猿のような姿とされているものが多く、嘴や背中の甲羅はない。頭頂にも窪みがあるとされる程度で、立派な皿があるとまでは書かれていないことが多い。その典型は正徳2年(1712)に刊行された寺島良安の百科全書『和漢三才図会』に収められた「川太郎」の絵である。

 

・また、「カッパ」という呼称が全国に広まった時代もやはり江戸時代中期のようだ。河童を意味する方言は一説に全国で400種以上もある。

 先に述べたガラッパは熊本・宮崎・鹿児島の各県で用いられているものだが、他にも、ミンツチ(北海道アイヌ)、メドチ(青森)、カワソ(石川・島根、他)、カシャンボ(和歌山・三重)、ガタロ(奈良・大阪、他)、エンコウ(広島・高知、他)、シバテン(高知)、スイテング(福岡)、ヒョウスベ(佐賀・長崎・宮崎、他)、ケンムン(鹿児島)、キジムナー(沖縄)と枚挙にいとまがない。

 

・「カッパ」もそうした方言の一つで、もともとは関東地方で用いられたものだった。江戸の出版物が地方でも読まれることで、関東方言にすぎなかった「カッパ」がさまざまな水神の眷属や水の怪の総称とみなされ、その特徴を次第に共有するようになっていったわけだ。言い換えると400種以上もの河童の方言は、もともと400種以上も存在した水神の眷属や水の怪が江戸中期以降、「カッパ」の呼称に統一されていったその名残と考えられる。

 

 

 

『ニッポンの河童の正体』

飯倉義之  新人物往来社    2010/10/13

 

 

 

<宇宙人グレイ説>

・さまざまな河童の正体説の中でも極北に位置するのが、この河童=宇宙人グレイ説である。UFOに乗って地球に飛来し、NASAと取引をしてエリア51に潜んでいるという宇宙人・グレイ。彼らは、1メートル20センチ程度で、メタリックな灰色の肌をし、釣り上がった目と尖った顎が特徴である。彼ら悪の宇宙人グレイこそが太古から日本に出没していた河童であり、河童に尻子玉を取られるとはUFOにさらわれての人体実験、河童駒引とはつまり現在のキャトル・ミューティレーションのことだったのだ、というのがこの説である。

 

・宇宙人という正体不明の存在を河童という正体不明の存在の正体にするというのは、つまり何も判明していないのと同じだというのがこの説の最大の弱点である。

 

 宇宙人・グレイと河童の不思議な符合は、人や家畜を害するものに対する想像力のありようは、文化が違ってもどこかで似ることがある、と考えた方が合点がいくのではないか。

 

・このグレイ説は雑誌『ムー』誌上で人気を博してさらにもう一段階の進歩を遂げ、実は宇宙人だと思われているグレイは地球固有の異次元吸血妖怪で、アメリカ軍はそれを知りつつ本当の宇宙人のカモフラージュに妖怪・グレイを用いているのだとされる。

 

・世界中でチャパカプラとかスワンプ・モンスターと呼ばれて人や家畜を害しており、さらに彼らはプラズマを操って河童火を燃やす力があり・・・とまあ、八面六臂の大活躍である。この説に従うと、「妖怪だと思われていた河童の正体は、実は宇宙人だと思われていた妖怪である」ということになる。複雑さは増したが、何も言っていないことは同じと言うことになるだろう。

 

<河童で町おこし><町中の妖怪たち>

・日本では各地域に伝わる妖怪伝承をもとにした町おこしが行われている。近年では、鳥取県境港市の「水木しげるロード」が人気を博している。

 

<札幌市奥座敷定山渓温泉>

・札幌市奥座敷定山渓には、「かっぱ淵」の伝承がのこされている。ある青年が豊平川で急に何かに引きずり込まれるようにして淵の底に沈み、発見できなかったが、一周忌の夜、父親の夢枕にその青年が立ち、「私は、今、河童と結婚して、妻や子どもと幸せに暮らしていますから安心してください」といって消えたという伝承である。札幌市奥座敷定山渓温泉は、この「かっぱ淵」の伝承をもとに、河童で町おこしを行っている。

 

<岩手県遠野市>

・岩手県遠野市は、「河童のふるさと」として有名である。遠野市には、柳田国男『遠野物語』に河童の伝承が多くみられるように、河童にまつわる伝承が数多く残されている。

 

<宮城県加美郡色麻町>

・色麻町には、「おかっぱ様」として有名な磯良神社がある。

 

<千葉県銚子市>

・銚子市には大新川岸の河童伝承がある。昭和601985)年に、「銚子かっぱ村」ができた。

 

<東京都台東区「かっぱ橋本通り商店街」>

・「かっぱ橋本通り商店街」では、かっぱ像や、かっぱの絵の看板をたくさんみることができる。

 

<広島県南区段原>

・猿猴川は、猿猴(エンコウ)」という河童の名称がつけられているとおり、河童がいたと言う伝承がある。

 

<熊本県天草市栖本町>

ガワッポ(河童)の伝承が残されている。

 

<福岡県久留米市田主丸町>

・河童の総大将の九千坊が筑後川に棲んでいた伝承がのこされている地域である。

 

<河童愛好家による全国ネットワーク><河童連邦共和国>

・日本全国で河童の町おこしをしている地域や河童愛好家の人々が集まり、「河童連邦共和国」というネットワークがつくられている。

 

 

 

『河童・天狗・神かくし』

 (松谷みよ子)(立風書房) 2003/4

 

 

 

<河童には、昔から日本全国で土地特有の名称があった>

<河童の名称>

(北海道)  コマヒキ、ミンツチ(アイヌ)

 

(東北地方) オシッコサマ、シーッコサマ、カッパ、カァパ、カァパコ、カッパァ、カワワラス、カッパァ、ガワダロウ、ザンビキワラシ、セッコウサマ、メドチ、メドツ、メットウチ

 

(関東地方) カッパ、カッパノコ、カワッパ、カダロー、ガタロ、カワワラワ、ネネコ、封(ホー)

 

(中部地方) エンコ、カッパ、ガッパ、カーランベ、カースッパ、カゴウソ、カワ(ラ)コゾー、カワボウズ、カワザル、カワババ、カワコゾ(ウ)、カーラボーズ、カワヤロウ、

 

カワツズミ、カーカンパ、カワッパ、

 

カワウソ、カワダ、カーラボン、カワラ、カワコボーズ、ガワロ、ガウロ、ガォロ、ガワエロ、ガワイロ、ガメ、ガワラ、ガワタロ、コボッチ、シジン、シイジン、スイシン、スイジン、スジンコ、セーシン、セージン、テガワラ、ドーツン、ドチロベ、ドチ、ドチガメ、ヌシ、ミズシワッパ、ワワッパ

 

 (近畿地方) イ(ン)ガラボジ、ウンガラボーシ、エンコ、オンガラボーシ、カッパ、カワッパ、カワラ、カワソ、

 

カワタロ(-)、カワコ、カワコゾウ、カタロ、カワタラ、カシラ、カワンゴロ、カワコボシ、カワラコゾウ、カワロ、カンコロボシ、カワノトノ、ガタロ、ガワタロ、ガ(-)タロ(-)、ガァラ、ガウライ、

 

ガワッパ、ガイタロウ、ガロウ、ガロボシ、ガウラ(イ)、ガシャンボ、ガ(ッ)タラボ(-)シ、ガンタヲボシ、

 

ガイタルボーズ(カイダルボーズ)、ガラボシ、ゴウタロウ、ゴウタラ、ゴウラボ(ウ)シ、ゴウヲゴランボ、ゴボシ、ゴロボシ、シリヒキマンジュ、シリヌキ、シリコーボシ、スッポン、ドンガス、フンゴロボージ、ヒョウスボウ、マロ、ヤマタロ、

 

 

 

『河童・天狗・神かくし』

 (松谷みよ子)(立風書房) 2003/4

 

 

 

<河童の名称>

<河童の名称は全国各地で色々だ>

(中国地方)

エンコ(ウ)、カワッパ、カワコ(―)、カウコ、カウゴ、カワソ、カワコボーズ、ガウロ、ガ(ッ)タロー、ガウコ、ゴンゴ、ゴーゴ、ゴンゴージ、テナガ、フチザル、川子大明神

 

(四国地方)

イドヌキ、エンコ(ウ)、カワウソ、カワラ、カタロー、カワランベ、カダロウ、ガタロ(-)、ガワタロ、ガワラ、ガァラ、ゴタロ、ゴタコ、ゴタラ、シバテン

 

(九州地方)

エンコ、オト、カワノト、カワノヌシ、カワノヒト、カワコ、カントン、カーダラ、カーボン、カワタロウ、カワンヒト、カワノト、カワノヌシ、カワノヒト、カワンチョロ、カワントロ、カワノトノ、カワントン、カワロ、カリコボ、カワッソ(ウ)、カワゾウ、カワッパ、カーッパ、ガーッパ、ガッコ、ガワッパ、ガーダラ、ガワタロ、ガンチョロ、ガワッパ、ガータロ(-)、ガントロ(-)、ガントン、ガーッポ、ガグレ、ガゴ、ガラッパ、ガワロ、ガラッポ、ガンバ、ガースッパ、ガーロ、ガタロ、

 

ガシタロ、ガワンタロ、ガワッパ、ガッタロ、ガァッパ、ガッパ、ガアラッパ、ガワンタ、コウラワロウ、

 

サンボシ、スイテング、スイテンボウズ、スジンドン、セコ、セコンボ、セココ、セセコ、セコボウ、ヒョ(ウ)スンボ、ヒョウボウ、ヒュ(ウ)スボ、ヒョイヒョイ、ヒュースベ、ヒョウス、ヒョウスヘ、ヘテゴロ、

 

ヘジコロ、ホグラ、ナサン、ミズシン、ミッツドン、ヤマワロ、ヤマンタロー、ヤマセコ、ヤマオロ、ヤマウロ、ワワッパ、ワラドン

 

(奄美大島)ガウル、ガワッパ、コーバチ、ケンムン(ケンモン)

 

(沖縄地方)カムロー、キジムン(キジムナー)、ブナガヤ

 

 

 

『異星人遭遇事件百科』 

(郡純)(太田出版)(1991年)

 

 

 

<関東地方くらいの広さのある“エリア51”のエイリアンの動向は依然不明だ>

<エリア51では円盤が制作されている>

・ラージ・ノーズ・グレイは、オリオン座のベータ星を母星とするいわゆるリゲリアン。地球には植民地の保護監査官のような立場。

 

・(主な異星人の三タイプ)

1、オリオン座のベータ星から来ているリゲリアン。通称“グレイ”。身長約1.2メートル、頭部が大きく皮膚は灰色、目はアーモンド型で、両腕は膝の下まで達する。指は4本で2本は長い。指先がかぎ爪、水かきがついている。

 

2、レティクル座のゼータ星から来ているレティキュラン。通称“グレイ2”。見かけはグレイと似るが頭と目の形がもっと丸い。

 

3、プレアデス星団から来ている“ブロンド”。金髪で背が高く白人と同じ姿をした異星人。

 

・ラージノーズ・グレイはその昔レティキュランに滅ぼされた種族なんだ凶暴でレベルが低い。惑星連合政府ではおもに辺地の警備任務についている。

 

・惑星連合政府というのはレティクル座政府が5百年前に設立した宇宙最大の連合体だ。レティクル座人が実質上牛耳っている。

 

・米政府と「ラージ・ノーズ・グレイ」が戦争状態にあったことは一度もない。戦争状態は彼ら異星人達の間であったのだ。

 

 

 

『異星人遭遇事件百科』

 (郡純)(太田出版)(1991年)

 

 

 

<アイゼンハワー大統領が異星人と会見した>

<衝撃を与えたクーパー氏の証言>

・元米海軍の情報部員のウィリアム・クーパーの証言には不正確な所がある。ラゾフスキー博士が、その正確さを保証するクーパー証言のMJ-12項目を、補足をまじえながらまとめてみよう。その内容は要約すると以下の骨子からなる。

 

1、1953年合衆国政府はロックフェラー財閥の秘密協力のもとに対UFO特別戦略セクションを設立した。

 

2、セクションの名称は、MJ-12。本部はメリーランド州某所。本部のコードネームは「カントリークラブ」である。

 

3、50年代半ばMJ-12は、る宇宙種族と極秘協定を結んだ。

 

4、極秘協定の相手方はオリオン座人。種族名は通称“ラージ・ノーズ・グレイ”である。

 

5、協定の内容は以下の通りである。

 

・異星人は地球上で生物実験をおこなう情報を許される。

・合衆国政府は実権を秘密裏に援助する。

・実験の対象は野生動物、家畜のみならず人間を含むものとする。

・合衆国政府は実験の援助とひきかえに異星人の先進的なテクノロジーの提供を受ける。UFOの推進原理も含まれる。

 

・異星人は生物実験および自らの存在を地球人に知られないために必要な措置をとる、(誘拐対象者の記憶の抹消措置を意味する)

 

 

 

『河童よ、きみは誰なのだ』  かっぱ村村長のフィールドノート

大野芳   中公新書        2000/5

 

 

 

<河童の渡来>

・熊本県八代市には、「河童渡来の碑」がある。昭和20年代、球磨川畔に地元の有志によって建てられたものだが、れっきとした由来がある。

 

・いまから156百年前、中国は呉の国から九千坊という文武にすぐれた頭目に率いられた河童の集団が熊本の八代に渡来し、球磨河口の徳の津(徳淵)から上陸した。彼らは、球磨川や不知火海に住み着き、大陸の医学や土木、織物の技術を伝え、それがここから日本全国に広まった、とするものだ。

 徳淵にある碑文には、「河童は千五~六百年前中国から渡来した」とあり、「オレオレデーライタ」と刻まれている。

 

・そのころ日本は、応神天皇の時代(270310)である。

 

・実は、この渡来した九千坊たちには、後日談がある。勢力を増した九千坊たちは、乱暴を働き、川へ遊びにきた女子供たちをかどわかしたりした。ある日、川遊びに行った肥後領主加藤清正(15621611)の小姓が河童に引かれて死んだ。これに怒った清正は、「わが領地で乱暴狼藉をはたらくとは言語道断である。みな殺しにしてくれん」と、高僧たちをあつめて封じさせ、川に毒薬を流した。そして河童の嫌いなサルをあつめて攻めさせ、ついに九千匹もの軍勢をもつ頭目九千坊を追いつめた。九千坊は、封じた高僧たちに詫びを入れ、領内では悪さはしないと約束したが、清正の怒りは収まらなかった。清正から即刻領内から立ち去れと命じられた河童たちは、やむなく隣国の筑後久留米の有馬侯の許しをえて筑後川へ引っ越し、水天宮の眷属として仕えるようになった。

 

<疫病追儺と福徳招来>

・加藤清正に追われた九千坊のその後である。九千坊の一族は、熊本から筑後国(福岡県)久留米の有馬氏の領地へ移動した。棲家として与えられた筑後川のほとりには、水天宮があった。平家が滅亡するときに道連れになった安徳天皇と外祖母平時子(二位尼)、そして生母の建礼門院徳子、それに日本神話の最初に登場する天御中主神(伊勢神宮に深い関係がある)が祀ってあった。その水天宮の眷属として落ちつき場所を得たのである。

渡来人である九千坊たちは、あらゆる知識を駆使して安産、火災よけ、水難よけ、福徳招来の霊験を発揮した。眷属にすぎなかった河童は、やがて神として信仰され、水天宮信仰は、河童信仰とさえいわれるように出世した。

 

<須佐之男命と牛頭天王>

・京都八坂神社の社伝によると656年に新羅の牛頭山における素戔嗚尊の神霊を迎え祭り、667年に社殿を建立したものという。しかし、<二十二社註式>などには、876年に常住寺の僧円如が神の宣託によって牛頭天王を、今の社地の樹下に移し祭ったのを起原とし(天竺の祇園精舎の守護神たる牛頭天王を祭ったので祇園社と称すると伝えられる)、そののち藤原基経が威験に感じて精舎を建立した。これが今の社壇であるとみえている。

 

・主祭神は、須佐之男命。またの名を牛頭天王という。

 

・また、高知県で河童を<シバテン>と呼ぶところから、インドの<シヴァ神>を連想した。須佐之男命の荒々しい性格に似た破壊の神である。別名パシュパティといい、ネパールでは雨乞いと豊穣の主祭神とされる。しかし、水牛にまたがるその神の和名は「大威徳明王」と呼ばれ、姿形は似ていないのである。

 もし、<河伯=神農=牛首=牛頭天王=須佐之男命>となれば、故に<河伯=須佐之男命>になり、一挙に解決するはずなのに、最後の一線が超えられないのである。

 

((インターネット情報) 九千坊本山由来記 昭和31年  福岡河童会発行「九州の河童」所載

 

<九千坊物語>

・いまは昔、河童の先祖はパミール山地の一渓水、支那大陸の最奥、中央アジア新琵省タクラマカン砂漠を流れるヤルカンド川の源流に住んでいました。寒さと食糧不定のため、河童たちは二隊に分かれて大移動を開始しました。一隊は頭目貘斉坊(ばくさいぼう)に率いられて中央ヨーロッパ、ハンガリーの首都フタペストに到着し、この地に棲息しました。頭目九千坊は、瑞穂の国日本をめざし部下をひきつれて黄河を下り黄海へ出ました。そして泳ぎついたところは九州の八代の浜です。仁徳天皇の時代、今からざっと干六百年の昔です。九千坊一族は、球磨川を安住の地と定めました。

 

<加藤清正に追われた九千匹の河童の大移動。尻小玉を抜いたばかりに>

・三百三十年前、肥後の国の城主は加藤清正でした。清正の小姓に眉目秀麗な小姓がいました。清正寵愛の小姓に懸想した九千坊は、約り糸をたれていた小姓を水底に引きずり込んで、尻小玉を抜いて殺してしまいました。清正公は大いに怒り、九千坊一族を皆殺しにせんと九州全土の猿族を動員することとなりました。関雪和尚の命乞いによって球磨川を追放された九千坊一族は、水清く餌豊富な筑後川に移り、久留米の水天宮(安徳天皇と平清盛と時子二位局とを祀る筑後川治水の神)の御護り役となりました。幕末、有馬家高輪の下屋敷内に水神様が祀られ、九千坊一族は、その近くの海に移り住みました。文化年間、有馬家は、水神様をお江戸は日本橋蛎殻町へ移し水天宮を祀りました。すると九千坊の-族も、日本橋へ転居し隅田川へ。ところが何しろ、九千匹の河童ども。中には色好みの河童もいれば、食い気ばかりの河童もいました。人畜にいたずらをする河童もあれば、水中交通道徳を守らない河童もいます。頭目九千坊より破門されたこれらの河童たちは、全国の川に散っていきました。

 

<お江戸を見切って筑後川へ>

・江戸というところは部下の統率上おもしろくない場所であると悟った頭目九千坊。有馬の藩主に許しを乞い、古巣筑後川に帰ってきました。筑後川は餌まことに豊富である上に、筑後川沿岸や、その支流巨瀬川畔の人々は、人情こまやかで河童に対しても親切であり、まことに天然の楽土。九千坊は部下の河童どもとここを安住の地と定め、九十九峯とも呼ばれる耳納山地が眺められる、水清き巨瀬川の田主丸馬場の蛇淵を本拠とし、今日に及んでいるとか。

 

 

 

「羽咋市 『宇宙とUFO、国際シンポジウム』の記録」{1991年}

 

 

 

<初めに不思議ありきー水産庁調査船「開洋丸」が遭遇した巨大UFO(永延幹男 博士) >

<1986年12月21日の遭遇>

・次は、カリフォルニア沖の海洋調査に向かう際、ハワイ、ウィク島を航海している時である。私は、乗船していなかったが、乗員7名が目撃し、データについて相談を受けた。まず、夕刻6時に3名がワッチに当たった時、レーダー上で左舷側に直径400mの物体を観測した。しかし、天候良で明るかったのに肉眼、双眼鏡では確認できなかった。その時はすぐに物体はレーダー圏(2030マイル)外へ去った。

 

・2度目は、次のワッチのグループが午後8時30分に目撃している。この時もレーダー上では観測されているのに、肉眼ではできていない。「ブォー」「ドン」という音を聞いている。時速5000kmで直角ターンをしたり、船の周囲を回ったり船の前方で「卵をつぶしたような強烈な光」が、12秒間光ったりしたそうである。

 

 

 

『遠野物語事典』

(石井正巳) (岩田書院)2003/7

 

 

 

<マヨイガ>

遠野では、山中にある不思議な家をマヨイガという。マヨイガは白望山(しろみやま)にある。黒い門があり、あたりは紅白の花が咲いていて、牛、馬、鶏がたくさんいる。家に上がると、膳椀の支度がしてあり、湯も沸いているのだが、人はだれもいない。

 

<河童(かっぱ)>

「川には河童が多く住めり」と明示される。この話では、河童とおぼしきものの子を、人間女が産んだ話が紹介される。女が河童の子を二代や三代の因縁にあらず産んでいるともされる家。

遠野には、河童が婿入りをして、子供を生ませたという家なども残っていた。

 

<異人>

「大男で、眼の光きわめて恐ろしい」人物が、人間が目をふさいでいるうちに消えてしまったという話。

「異人は山の神にて」とあり、「山の神」を異人としていることがわかる。

「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれていく者年々多くあり」という話で、異人とされる者の外見や特徴は何一つ記されていない。「異人」とは、その姿形、容貌が普通の人間とは異なっている者を指していうのだろう。普通の人間が持ち得ない能力を持っていることもあったようだ。

 

 

 

『村落伝承論』    『遠野物語』から

三浦佑之        青土社  2014/6/24

 

 

 

<神隠しと境界――封じ込められる神>

・『遠野物語』には、山の中で山男や山女に出会うという猟師たちの体験談が満ち満ちている。それらの伝承に正面から立ち向かって山人論を展開させようという準備も勇気もないのだが、『遠野物語』の山人譚をみてゆくと、それらの話群には二つの傾向があることに気づく。一つは、山に入ってあちら側の者、山男や山女・大坊主・天狗などに出あう話であり、もう一つは、山の中で、以前に里からいなくなった娘に出あい山人との生活の様子を聞くという類の話である。

 

<1 神隠しに遭う女>

・ある日猟師が、村から突然いなくなった若い娘に、山中で出あう。娘は、隠された後の山男との恐ろしい生活を語り、早く立ち去れ、誰にも言うなと言う。『遠野物語』の神隠しの話はどれもこのような語り方で、ほぼ一定の説話的様式性をもって語られている。たとえば、次のような話である。

 

A 遠野郷にては豪農のことを今でも長者と云ふ。青笹村大字糠前の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某と云ふ猟師、或日山に入りて一人の女に遭ふ。怖ろしくなりて之を撃たんとせしに、何をぢでは無いか、ぶつなと云ふ。驚きてよく見れば彼の長者がまな娘なり。何故にこんな処には居るぞと問へば、或物に取られて今は其妻となれり。子もあまた生みたれと、すべて夫が食ひ尽くして一人此れの如く在り。おのれは此地に一生涯を送ることなるべし。人にも言ふな。御身も危ふければ疾く帰れと云ふままに、其在所をも問ひ明らめずして遁げ還れりと云ふ。         (『遠野物語』六話)

 

・神隠しに遭った女は、一度だけ村人の前に姿をみせて、それまでの恐ろしい生活を語るというのが、こうした話のきまった語り口である。『遠野物語』でこの話の次に並べられた第七話の話もほとんど同じかたちで語られているし、『山の人生』にも同様の話は数多く引かれている。ここでは、「長者の娘」と語っているが、これは不思議に出あう女たちに共通する。豪農や豪家など恵まれた家の女たちが狙われるのは、たぶん、神話的な、選ばれた家筋、神に血筋をもつ家の娘=神を迎えることのできる巫女的な存在としての女に繋がっているのが、これらの神隠し譚における娘たちだからであろう。巫女を説話的に語れば、美しく豊かな家の女というふうになるのが、説話表現の様式性である。出あった猟師がすぐに鉄砲を撃とうとすると語るのも、この類の話には多いのだが、そこには山中で不思議に出あった猟師たちの恐れの言語化があると読める。だから娘に出あって話を聞いただけで逃げ帰るといった類型化された展開をとる話が多くなるのである。

 

・女の語る境遇も、よく似た語られかたをする。いずれの場合も怖ろしいものの妻になっており、だから当然子供も生まれたという。しかしその子は「すべて夫が食ひ尽して」しまったと語る。第七話でも女は、「子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子非ずと云ひて食ふにや殺すにや、皆何れへか持去りてしまふ也」と語っている。

 

・子供を食ってしまう(らしい)という共通した語り口をとるが、それは、「自分には並の人間と見ゆれど、ただ丈極めて高く眼の色少し凄し」(第七話)と語られている相手の男が、普通の男のようでありながら、ただの人間ではないということを語るための象徴的な描写だということを示している。たとえば、昔話で、山の中の一軒家に棲む山ん婆が囲戸裏に架けた鍋の中で赤ん坊の肉をぐつぐつと煮ており、押し入れのなかには人の骨をいっぱいに押しこんでいたなどと語るのと同じことなのである。

 

・もちろん、いつも一人で逃げ帰るのではなくて、勇気のある猟師が、出あった女を連れ帰ろうとしたというふうに語られる場合もある。

 

B 女は猟人に向って、お前と斯うして話して居る処を、若しか見られると大変だから、早く還つてくれと謂ったが、出逢って見た以上は連れて還らねばすまぬと、強いて手を取つて山を下り、漸く人里に近くなったと思ふ頃に、いきなり後から怖ろしい背の高い男が飛んで来て、女を奪ひ返して山の中へ走り込んだ。        (『山の人生』)

 

・一度山に入り、恐ろしきものの妻になった女は、二度と元の里にはもどることができないのである。ただ一度だれかに出あうのは、彼女たちが確かに怖ろしきものの妻であることの存在証明なのだ、と説話表現の面からはいえるだろう。

 

・殊に自分たちが大切な点と考へるのは、不思議なる深山の婿の談話の一部分が女房にも意味がわかつて居たといふことと、其奇怪な家庭に於ける男の嫉妬が、極端に強烈なものであつて、我子をさへ信じ得なかつた程の不安を与へて居たことである。即ち彼等は若し真の人間であつたとしたら、あまりにも我々と遠く、もし又神か魔物かだつたといふならば、あまりにも人間に近かつたのであるが、しかも山の谷に住んだ日本の農民たちが、之を聴いて有り得べからずとすることが出来なかつたとすれば、そは必ずしも漠然たる空夢ではなかつたらう。誤つたにもせよ何等かの実験、何等かの推理の予め素地を為したものが、必ずあつた筈と思ふ。

 

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